あれから10年。 1年に1回黙祷する日だった。理由はない。
ただ何となく続けている。毎年神社にいってたが、コロナ禍なので、行くのはやめた。
<私の生まれ故郷>
福島県いわき市。浜通り、海沿いに面している。福島県は意外とでかくて、会津、中通り、浜通りと大きく3つの区画に分かれている。
小名浜港では漁業が盛んで獲れたての魚介類を楽しむことができるお店や、市場がある。夏には盛大な花火大会が行われ、的屋が道沿いにずらっとならぶ。レジャー施設として有名なのはスパリゾートハワイアンズだろうか。ちなみに家から15分だった。
あのレベルの地震があったが幸い自宅は耐えてくれて、私の両親、当時飼っていたペットの猫も守ってくれた。Thx、積水ハウス。2×4。住友林業でごめんよ。
自宅は浜通りだけど、どちらかというと山の方で海からはかなりの距離があった。
津波の被害はなく、壁にひびが入る程度で済んだ。山に面していたので土砂心配したが大丈夫だった。
いわき市は福島第一原発からは30km以上離れている為、ぎりぎり避難区域にはならなかった。幸い友達や知人、親戚で死者はでなかったが、家が流された友人は多かったのと、富岡に実家をもつ友達は住めなくなり移住を余儀なくされた。
<地震発生時>
その時町田市にいた。あんな地震の後でも私は比較的、いや恐ろしいほど冷静にコンビニで全額下ろして、水買って、原付のガソリンまで入れた。その後バイト先が心配で駆けつける。大通りの信号は停止。道路はめちゃくちゃ。向かいの109のギャルが交通整理していたのを覚えている。素晴らしいよね。
バイト先はバーのグラスやらリキュールがひっくり返ってて、重たいビールサーバが出張してる。ランチで働いていた先輩が必死にお酒を守ってくれてたが、床は割れたグラスまみれだった。荒れた店内を片付けてお客様を迎え入れることとなり、通常通り営業。バーカウンターには1人で女性のお客様が多く詰めかけた。家に帰ることができずカラオケ、満喫、ラブホまで確認したけど、ダメで始発まで時間潰すという人がかなり多かった。
幸い地震発生から2時間程度で両親とは連絡が取れて、生存確認ができたが、原発をすっかり忘れていた。最初水素爆発は何時だったろうか。そのニュース見た瞬間血の気が引いた。放射能が外に漏れてどういうことになるか、はだしのゲンを見ていればわかるだろう。実家と家族の死がよぎり覚悟を決めた。バイト中に。誰譲りか知らんけど、眉一つ歪めず接客していた。我ながら冷静だ。
<親に聞く3.11の当時の話>
支援物資は届かず、人はどんどんいなくなり、断水で2週間風呂入れず。
というか食い物がない。という状態だったそうだ。たまたま余ってた腹持ちの良いイモ食って耐え忍んだそうだ。
つまり、一番支援受けられないような地域。大丈夫という謎のハンコを押されて、色々足りないんだけど十分な支援が受けられない一番損する区域だった。
中でも「市長のハンコがないと」といってたくさんの支援物資を腐らせた。クソ役所が!というのは母の語り癖になっている。兎にも角にも食い物がなかったそうだ。
そんな中届けようと一番早く動いてくれたのは江頭2:50さん。クソかっこいいよね。
<リアルな情報>
東京にいて、社会に出た私からはあっという間の月日。しかし恐らく本当に被災した方からは永遠のような時間だったであろう。2011年8月。社会人初のお盆休みに帰省。
この目でどうしても確認したく海沿いに車を走らせたが正直想像を超えていて言葉がでなかった。海があり、砂浜あり、高台があり、道路があり、その奥に高台があり、家があるのだが、その高台の家すら全部なぎ倒され、家の残骸が広がっていた。津波ってここまで届くのか。と恐ろしさを知った。自分の意思で事実を確認しに行ったが、心底後悔した。何とも言えない感覚に陥り、気持ちが落ちた。それ以降軽々しく震災、津波のことを口にするのをやめた。多分あれがリアル。そしてもっとこんなもんじゃない過酷な体験をされた方が数多くいるのだろう。
不幸中の幸いで、私も誰も身近な方を失っていない。今は東京で元気に働くサラリーマン。本当の被災者からすると、もしかしたら俺みたいなヤツが鼻につくのかもしれないけどね。
震災を経て、生かされた意味。ということをこの日だけは考えるべきだろうと。
どんな理由であっても命は自ら立つべきではないよな。そんなこと許されてたまるかって。
そう思う。